ベッドブログ

家の中で完結するブログです。

コミュニケーション能力についての考察


1.コミュ力神話について
  コミュ力とは、一般に言うコミュニケーション能力のことだ。
コミュニケーション能力がある人は、他者との交流が上手く、交友関係を築く能力に優れている。また、その能力を活かして組織内では他人と他人との間を取り持つことで潤滑油としての役割を担う。まさにチームワークを行うにうってつけの人物像である。
今回のブログでは、このコミュ力神話を真っ向から否定し、コミュ力などというものがいかに虚無的で都合の良い言葉であるかを解説していきたい。
 
2.今朝、電車で出会ったコミュ障
  今日の朝、いつものように会社へ向かっていた。
僕の家から駅までは歩くと15分ほどかかる。普段であれば電車が最寄駅に到着する15分前に家を出るのだが、今朝はなんとなくやる気がなかったので10分前に家を出た。
駅まで15分かかるのに10分前に家を出ては、当然いつものペースで歩いていては間に合わない。となると、少し小走りで駅に向かう必要があるのは自明だ。
しかし、僕はいつも朝考えていることを思い出した。
よく朝に駅まで走っている人を見ると、「この人は何故走っているのだろう。寝坊したのだろうか。おそらく走れば間に合う程度の時間差なのだからたいした寝坊ではないはずだ。であれば何故もう数分早く家を出なかったのだ。数分早く家を出るのと、今こうして走ることのどちらが彼・彼女にとってのストレスなのだろう。なんて愚かな人間なのだろう」
上記のように普段考えている自分を思い出し、僕は小走りで駅に向かうことを諦め、電車を一本遅らせることに決めた。
さて、本題はここからだ。いつもより遅い電車に乗ると、普段の電車より一回り乗車人数が少なく、心なしか弛緩した空気が漂っていた。その空気を発している主な原因は、ある2人組の男女だった。
おそらく昔からの顔なじみで、ひさしぶりに偶然電車で再会したらしい2人は、朝っぱらだというのにハイテンションでトークに花を咲かせていた。
男はどこかの会社で研究職をしているらしく、自分の研究について誇らしげに、得意げに女性に向かって語っていた。専門用語をふんだんに使って展開される話に女性は明らかに困惑しており、適当に相槌を打ちながらその場が解散されることを待ち望んでいるように見えた。
僕はそんな光景を見てある疑問が浮かんだ。僕は自分が一般的に言うコミュ障であるという自覚がある。何故なら僕は仲の良くない他人と話すときに何を話していいか分からなくなってしまったり、話しても上手く会話が楽しい方向へと進んでいかないという経験があまりに多く、今では他人との会話をなるべく避けながら生活するコミュニケーションモグラのような人間だからだ。
ここで僕の脳裏に浮かんだ疑問とは、コミュ障な「僕」と、コミュ障な「理系の彼」は、果たして同じコミュ障という言葉で片付けられるのだろうかというものだ。相手にコミュ障だという判断を下されるという点では僕と理系の彼は同じだが、本質の部分まで考えを掘り下げていくとどうもそこには決定的な違いがあるような気がする。
前置きが長くなったが、このブログでは僕のようなコミュ障を「文系的コミュ障」、理系の彼のようなコミュ障を「文系的コミュ障」と分類したうえで論を展開していく。

3.文系的コミュ障
例えば、太宰治ドストエフスキーが現代に蘇り、社会人として実社会生活を送るとする。彼らは一般に言うコミュニケーション能力が高い存在に相当するだろうか。僕の印象からすると、彼らは確実にコミュ障と呼ばれ他人から困った人としての烙印を押されるだろう。
何故なら彼らは自分の考えや他人の考えについて繊細過ぎるからだ。ビジネスを行う際に、彼らのような繊細な心持ちでは仕事が成立しない。
例えば、新入社員の太宰くんがあなたの部署に配属されてきたとして、何か雑用をやることになったとき、先輩であるあなたが「あ、それは僕がやっておくよ!」と太宰くんへの気遣いをしたとしよう。本来であれば太宰くんが新入社員だからといって、雑用をやらせたんじゃ可哀想だからあなたはそうした行動を取ったつもりが、太宰くんはそうは思わない。
「あれ、もしかして、俺ってこんな雑用すら任せられないほど信用されてないのかな。というか何かミスしてるのかな。ミスしてるけど気を使って俺には伝えていないのかな。もしかして俺ってこの会社に必要とされてないのかな。この人俺のこと嫌いなのかな」
色々考えるだろう。色々考えた結果、1年後には確実にこの会社から太宰くんは消えているだろう。
文系的コミュ障とは、この事である。いわゆる忖度する能力が非常に高く、相手の言動、行動に対して、その相手の考えが及ぶ域を超えてしまい、結果としてコミュニケーションを上手くとることが出来ない。つまり、文系的コミュ障は作者の気持ちを考えることが得意で、つい相手の行動の意図から複数パターンの可能性を考えてしまうが故にコミュニケーションに対して消極的になってしまう。

4.理系的コミュ障
今朝、僕が電車で出会った研究職の彼はまさしく理系的コミュ障である。自分が話していることを相手が理解しているか、前提知識を持っているかについて無頓着なために会話している相手を置いてきぼりにしてしまう。アスペルガー症候群的な素養を持つ。
彼らは基本的に自分の欲求さえ満たすことが出来ればそれで満足であり、会話している相手がどう思っているかなどということはどうでもいいと考えている。そのため、一方通行な会話になりがちで、一見楽しく会話しているように見えて、後でTwitterで悪口を書かれるタイプである。
文系的コミュ障は相手の気持ちを考え過ぎる。理系的コミュ障は、相手の気持ちを全く考えない。
実は同じコミュ障でも、逆方向の問題を備えているのではないかという疑問が僕の中に生まれたのだ。

5.コミュニケーション能力が高い人
では、コミュニケーション能力が高い人というのは、どういう人だろう。
僕のこれまでこ人生で、コミュニケーション能力が高い人の典型例に2度遭遇したことがある。1人は男性で1人は女性なのだが、彼らは相手の立場など一切関係なく話しかけることが出来る人だった。
かたや誰もが恐れる先生とさも当たり前のように仲良くなり、かたや誰彼構わずナンパを繰り返す人間。僕からすると全く理解できない存在だったのだが、彼らからしてみれば話しかけて失敗したところで特にデメリットは無い、と考え、ごく自然な立ち振る舞いとしてそれが出来たのだと思う。
彼らは今後も当然のように誰にでも話しかけ、当然のように社会的に良い立場へと上り詰めていくだろう。

6.コミュニケーション能力が高い人と理系的コミュ障との差
さて、ここで僕の中でまたさらに疑問が生まれた。先ほど例にあげたコミュニケーション能力が高い彼らだが、一歩間違えば理系的コミュ障となんら変わらない存在なのではないか、ということである。
理系的コミュ障は、相手がどう思うかを気に留めず、自分の衝動だけで会話を展開させていくことがコミュ障たる所以である。一方のコミュニケーション能力が高い人も、相手がどう思うかを考慮せずにどんどんと話しかけていくことが出来ることで理系的コミュ障と酷似している。
ではこの2組の決定的な違いは何なのか。それは話している内容である。話している内容でしかない。
今朝、僕が電車で見た理系的コミュ障は、何故話し相手の女性から怪訝な態度を取られていたのか。話している内容が(女性にとって)つまらないからである。
何故、コミュニケーション能力の高い彼らが社会的に認められていくのか。話している内容が面白いからである。
仮に理系的コミュ障の彼が超絶イケメンで、彼の話す内容がイマドキ女子の心を捉える美容ファッション芸能人ペットその他諸々であったならば、彼はいまごろコミュニケーション能力が高いホストとして本でも書き上げていたかもしれない。
でもそうはならない。何故なら彼の話は超絶つまらないからである。

7.まとめ
飽きたのでこの記事はここまでにするが、とにかく僕が言いたかったのは、コミュ力の高さというのはいかに世間的価値観に身を合わせるかということであり、個性とは程遠いところにあるくだらない多数決原理であるという話だ。例えば理系の彼の研究がものすごくイマドキ女子の心を掴む内容だったなら、彼はコミュ力が高いし、そうじゃないからコミュ力が低いとみなされる。そういう話である。
逆に文系的コミュ障というのは、うまくすれば相手の気持ちを察することに特化したコミュニケーションの達人、カウンセラーなどに向いている可能性すらある。しかしそうはならないのは、文系的コミュ障の忖度能力に社会の平均水準が追いついてないからである。つまりは、社会平均こそがコミュニケーション能力が高いということの正体である、というただそれだけを言いたい記事。それがこれ。以上