ベッドブログ

家の中で完結するブログです。

何も感じていないフリをする日本人

 10年くらい前、僕が高校生の頃、国語の授業の一環として集団討論、いわゆるディベートを行う回があった。4人ひと組みで、ランダムに割り当てられたテーマについて、肯定派か否定派かもランダムに即興でディベートを行うというものだ。

 普段はそれほど授業に関心は無く、机に突っ伏していたのだが、その日の授業は面白いので真剣に取り組もうと思っていた。明らかに僕のことを嫌っている国語教師も、たまに見せる僕のそれなりに的を射た反論に手を焼いていたらしく「○○(僕を指して)はこういうのが強いだろう」などと漏らしていた。

 しかし僕たちがディベートを行う番になり、両チームが前に出ると、僕は瞬時に降参することに決めた。状況は下記のものだった。

・テーマ「女性専用車両

・相手チーム(肯定派):クラスでも静かな女子4人

・自分チーム(否定派):特に強気な言動をするはずがない気の良い3人と僕

女性専用車両を作るなら男性専用車両もあってもいいんじゃないですかね、ま、女性専用車両があっても良いと思いますが。ハハ」

 そんなことを言って議論するでもなく早々に切り上げた。今から思えば、当時は女性専用車両が今ほどクリティカルな話題ではなかったし、電車もろくに使わない田舎の高校生相手に何を言ってもそれほどの反論は無かったかもしれないが、僕はテーマを聞いた瞬間に逃げを決め込んだ。なぜなら、いくら否定派に割り振られたからと言って、女性専用車両について男性である立場の僕が批判的な意見を述べようものなら、たちどころに敵意を向けられることが目に見えていたからだ。対戦相手では無く、聴衆であるはずの30人あまりの人々から。

 

 先ほど、Twitterを見ていたら以下のやり取りがあった。

  Twitterではよく見る、「赤ん坊が電車で泣いている論争」なのだが、これを見て当時女性専用車両を批判しなかった僕は正解だったと思い記憶が蘇ってきた。勝手に名前を出して恐縮だが、このハンドルネーム蟹さんの発言がバッシングを受けているのだ。

 僕としては、ここでの登場人物の考えが理解できる。電車で泣いている赤ん坊を見て不快感を示すおじさんも、やむえず電車に赤ん坊を乗せなければならない母親も、その話題について画期的なアイデアを述べる某匿名掲示板開設者も、そのアイデアについて一意見を述べる蟹さんのことも。唯一くだらないと思ってしまうのは、水を得た魚のように蟹さんをバッシングする人々である。

  「電車に0歳のせるひともアホだけどね」というのは少々言い方が良くないが、おじさん叩きの流れさえ汲まなければ一意見として有用なはず。なぜなら、こうした意見を認めることで、赤ん坊が泣いても誰も不快にならない仕組みをJRが考えるかもしれないし、赤ん坊の泣き声が聞こえにくくなるといった画期的なサービスが生まれるかもしれないからだ。

 疲れたサラリーマンが多く乗っているであろう平日の電車で大声をあげる者がいれば、その声の主が赤ん坊であろうと知的障害者であろうと女子高生であろうと不快感は変わらない。もちろん赤ん坊は泣いて育つものなのだから公共の場で大泣きしても許してあげましょうよという個々の精神の持ち方は素晴らしいことだと思う。しかし不快感自体を無かったことにして、不快感を持つ人もいるという事実を無視して総叩きすることは決して解決には繋がらないから、くだらないのでやめた方が良いのではないかと思う。

 僕がディベートの授業で恐れたのは、クラスメイトという目の前にいる人たちからのバッシングだった。ところがTwitterなどのSNS全盛の昨今なのに、意見の多様性どころか、より一層集団心理が働く場面が目立つと感じる今日この頃である。